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地域のホームドクター感覚の設計士&工務店を目指す 水野孝治&水野建築

私たち水野建築は、岐阜県土岐市・瑞浪市・多治見市を中心に、可児市・恵那市、愛知県春日井市・瀬戸市(車での移動30分圏内)で、いつまでも安心して快適に暮らしたいと願う方のために、家づくりを通じて、「安心・快適」を提供することに生きがいを感じている地域密着の工務店です。

私を育ててくれたのは、お客様の「ありがとう」でした

地域のホームドクター感覚の建築家&工務店でありたい。
私は50歳を超えてから、ますますそう思うようになっています。とにかく、人が好きで、建築が好き。だから、お客様のために笑い声の絶えない、そして家族の想い出をいっぱい残せる素敵な家をつくり、何かあったら電話1本ですぐに駆けつける、役に立つ建築家&工務店でありたいと思っております。お客様の笑顔を見たり、ありがとうの言葉を聞けることの素晴らしさ。今、この仕事をしていてよかった、と、改めて感謝している自分がいます。

仕事への愛情だけではありません。風景を見て感じること、太陽の光の暖かさや、季節毎の風の肌触りに「いいものだな」と想いを馳せる自分に気づくことがあります。

やはり年齢を重ねることは意義深いものですね。
若い頃には、仕事やお客様に対する、ここまでの慈愛と感謝の気持ちは持っていなかったかも知れません。もちろん風景にだってここまでの感受性を持っていたか分かりません。
いや、頭では、きっと分かろうとしていたとは思います。ただ、心から感じていたかどうか、今となっては苦笑いです。

しみじみ思います。
人(私)は、年齢を重ねてようやく気づくことは多いし、経験を通して身に付くこと、そして気づかされることで成長するものなんだなあと。逆に言えば、私はまだまだこれから成長できそうです。ですから楽しみでもあります。

さて、若かった頃の自分が、如何にぼんやりしていたかが分かるような出だしではありますが、私が建築家になったのも、父の跡を継ぐという、正直言えば成り行きもあっただけに、妙に納得してしまう自分がいます。

恥ずかしい話し、私はぼんやり者でした

幼稚園の頃

小学生の頃

私は昭和33年に先代の長男として生まれましたが、当時父はまだ通いの大工の棟梁として他社で働いておりました。
やがて昭和40年。私が7歳の時に父は独立し、水野建築を立ち上げました。私は長男ということもあり、無意識のうちに将来は父の跡を継ぐものと、ぼんやり思いながら成長しました。ですから「絶対に建築家に成るんだ」という強い信念はありませんでした。

弁解のようにもなりますが、ご存知のように当時は高度成長時代です。
今のように厳しい時代背景ではありませんでした。ですから私自身、将来へのハングリー精神はあまり無かったと思います。ただ、小学校・中学校と工作や技術の授業は得意でしたから、血筋は引き継いでいたのかもしれません。

やがて高校進学です。高校を卒業したら一旦はどこか別の場所で修行を積み、実践技術を身につけ父の跡を継ぐ。何も疑うことなく私は工業高校の建築科へと進みます。
しかし、学ぶうちに、もう少し上を目指したいと考えるようになっていきました。跡を継ぐ限りは、高校卒業だけでは限界があるとぼんやりながら考えたと思います。とはいえ、当時は父が事業主として独立してはいましたが、経済的に我が家は裕福ではないことも知っていました。ですから大学に進学させて欲しいと言い出せず悩みました。
今でも、夕食時に思い切って打ち明けた時の情景が思い出せます。父から「やってみろ」といわれた時の悦び。その時から目に映るものの輝き方が明らかに変わったように思いました。

夢が叶った大学生活、友と違う就職先選び

しかし当時、工業高校からの大学進学はハードルが高い時代でした。
入学試験の必須科目となる数学や物理は、普通科高校からの受験生と勝負しても適わないといわれていたので推薦入学を狙いました。ですから、高校時代は常に上位の成績でいられるよう勉強には手を抜かずに過ごしていました。

同時に中学、高校と卓球部に所属し、厳しい練習にも打ち込みました。今思えば、この中学、高校と卓球部のキャプテンを務めさせていただいた経験が、人をまとめる力、リーダーシップとして役にたっているかもしれません。

このような充実した高校生活の甲斐もあり、お蔭様で大学へは推薦で入学できました。
名古屋の大学なのでJRと地下鉄で通いました。大学では予想通り数学や物理などの基礎教養科目は普通科高校出身者に及ばず苦労した反面、設計や構造などの専門分野では大きく水をあけることができました。大学を卒業し、就職というフィニッシュに向けては、工科系の場合、工業高校出身者は有利な一面があったかもしれませんね。

大学生の頃

大学時代は先にも触れたように、高度成長時代ですから華やかなものでした。文科系学生と違い理科系学生は地味なものですが、時には友人のアパートに集まって麻雀に明け暮れもしましたし、それなりに学生生活をエンジョイしました。今でもこの時代の友人とは親しくさせていただいております。

アルバイトもガソリンスタンドのスタッフや家庭教師など色々やりましたが、何と言っても自分の家が建築業です。大工仕事や図面書きなど、手伝いを結構やりました。今で言うならインターンシップのような経験を積みました。

さて、いよいよ社会への旅立ちの時がやってきます。
荒井由美の「“いちご白書”をもう一度」の歌詞ではありませんが、友人たちは学生気分を抜け出し就職活動に邁進します。もちろん私もですが、彼らとは少し温度差が違いました。彼らは生涯の就職先を目指す者が大半です。できるだけ大手の住宅メーカーやゼネコンを目指しました。
しかし、当時大手企業に入社すると現場監督を任されるまでに下積みが長く、最短で7年は必要とも言われておりました。しかし、短期間の現場修行が目的の私としては、もっと早く監督の経験が身に付けられる企業を探す必要があり、大手プレハブ建築メーカーの子会社を選び入社いたしました。

監督業と段取りを学んだ実社会での修行時代

研修中のひとこま

入社したのはプレハブリースの会社で、望みどおり、入社早々現場監督の業務を覚えさせられました。
上司の一声で、遠方の慣れない現場へ単身派遣されました。つわもの揃いの現場では、新人の甘えが許されるわけも無く、社会の厳しい現実を突きつけられましたが、鍛えられたと思います。

現場での一番の収穫は「段取りを学んだこと」です。
学生時代の知識はやはり机上の流れでしかないことを痛感させられました。とにかく突発で物事が動きます。客先の一言、天候の急変、物流のアクシデントに、最適な方法を瞬時に考えて采配しなければならないわけですから。

それでも2年もいると慣れてきます。慣れた頃には今度は発注・管理の仕事が主なものとなってきます。
これがまた連絡ミス、管理ミスが許されない、神経をすり減らす仕事です。正直、幾度となく現場の方がいいな、と思うことがありました。
ただ3年間は修行だ、と考えていましたので、最後は胃が痛くなるほどでしたが頑張りました。退職する時には、上司から熱心に引き止められました。この時、「ああ、自分は、自分で考えていた以上に認められていたんだなあ」と少し自信を持つことができました。

スタートラインに立って見えてきたもの

水野建築へ入社

こうして会社を退職すると同時に「水野建築」に入社します。
とは言っても、自分にとってはスタートラインに立っただけに過ぎません。木造建築、注文住宅の世界では右も左も分からない状態なのですから。

当時の「水野建築」は、2歳下の弟が大工として現場で頑張ってくれていましたが、通いの職人が数人いるだけの個人事業の延長のようなものでした。特に現場と違い、経理や財務管理、伝票処理は大雑把で、「経営」とは程遠い状態でした。
おそらく、3年間会社務めをした効果があったのでしょう。古い時代感覚のどんぶり勘定のままでいいはずがないと危機感を覚えました。と、同時に自分への自信の強化、事業の強化を狙う意味でライセンスの必要性も強く感じました。
同業他社を意識し、焦りも生まれ始めていたと思います。

私は、経営に関しては未熟でした。しかしライセンス、つまり一級建築士免許の取得は何としてでも適えなければと猛勉強に取り掛かりました。生涯で一番勉強した時期かもしれません。その甲斐があって目出度く免許を取得することができました。

このことは私の意識を大きく変えました。入社2年目を迎えるこの頃、自分に建築家としての自意識が遅まきながら芽生え始めた感がありました。
やがて結婚。さらに一級建築施工管理技師の免許も取得して、建築家としてだけでなく、経営へのビジョンも持つようになります。

ぼんやりからの脱皮、会社の変革への取り組み

自分に自信が持てるようになっていたことが、経営に関して一歩踏み出す勇気になったと思います。
「やはり、このままでいいはずがない」。
私は、父に強く言いました。「コストに対する利益率も分からない、旧態依然というべき大雑把な経営、無きに等しいお客様管理、出入り業者との馴れ合いを、改善したい」と。父も自分のやり方での限界をうすうす気づいていたのかもしれません。私の剣幕にあっさり「自分の思うようにやってみろ」と権限を与えてくれました。そのあまりの潔さは、拍子抜けするぐらいで今思い返してみてもアッパレとしか言えない気がします。

時はバブル絶頂期。私は父の時代から付き合いのあった業者に煙たがられたかもしれませんが、外注先を整理し、顧客管理も整え、経理の明朗化も図りました。朝礼の徹底、現場の管理、業務中のタバコやラジオの制限など、多少波風は立ちましたが、視界スッキリという感じで、心機一転、始動し始めました。

ところがそんな時、若い社員大工が一人他社に引き抜かれました。彼は高校を卒業後約6年間我が社で育ちました。その理由を聞くと社会保険が無いから、というものでした。これから中堅大工として力を発揮して欲しいと思っていた時だけに、この衝撃は実に大きいものでした。

当時弊社には7~8人の社員としての大工がおりましたが、確かに雇用面ではまだ旧態で雇用保険など整備しておりませんでした。大工の老後まで考え、不安を解消するため彼らを社員として大切にしなければならない。そのためには利益アップへの効率化も図らねばならない。こちらも大きく舵を切る決心をいたしました。我が社が同規模の他社と違い、契約大工制ではなく、社員大工制にこだわる理由です。

我が社がどんなにお施主様のためにいい住まいを提供しようと思っても、たとえば契約大工さんの視線はどうしても、お客様にではなく、仕事を提供している我が社に向きます。でも我が社の社員というバックボーンがあれば大工は安心して我が社の方針通り、お客様の悦びに向き合います。「水野さんの大工はいい仕事をするよ」と評判が評判を呼ぶようになるには、やはり、安心して働け、技術を引き継げる環境整備も大事なんだと思います。

社長へ就任、バブル崩壊の荒波にも負けない信頼へ向けて

こうして、組織変更を通じ、1993年、新生「有限会社水野建築」を設立し、私が新社長として就任することとなりました。私が35歳。入社してから9年目のことです。

時代はバブル崩壊の余波でデフレ不況へまっしぐらに進んでいた時代ですが、今まで培ってきたお客様の評判と口コミに支えられ、不思議と業績はアップしていました。今思うと品質と性能は裏切らないことを教えられた時代でもありました。

当時、建築業界においても厳しさが増す時代でしたので、施工会社はもちろん、部材や素材会社など、業界全体でよりよいものを提供しない限り、生き残れないという雰囲気に包まれていました。

時代に取り残されて消えていく同業者が多い中、私は新たな性能との出会いをします。それが1995年から我が社で導入した冬暖かく、夏涼しい「スーパーウォール工法」です。常に耐震性能の追求はもちろん、品質へのアンテナを張り、様々な勉強会に参加していた私は、グラスウール比約2倍の断熱性能を誇る発泡ポリウレタンを充填した「スーパーウォール・パネル」で、家全体を丸ごと密閉断熱する画期的な方法論と実験での効果に触れ、迷うことなく導入を決めました。

この「スーパーウォール工法」のお客様の評判は非常に高く、我が社の信頼性と評判をさらに高いものへ引き上げてくれました。
お客様からはこんな具体的な話も頂きました。それは「氷点下の冬、値段が高くて高断熱をうたっていたはずの知人の家へ訪ねた時、底冷えし、暖房機器もフル稼働。あげくに結露にも悩んでいることを知り、水野さんに建てていただいた寒さ知らずの我が家の性能が、いかに高いかを知りました」「夏、蒸し暑い友人の家から我が家に戻ると、あまりの涼しさに自分の家の居心地のよさに驚きました。エアコンに頼りすぎず過ごせて、エコにつながり、家計にも優しいです」などです。

また、同工法の高い断熱性能は、壁紙クロスの継ぎ目めくれが起きにくいことからもお客様の評価を得ます。一般的に、温度変化の激しい環境の中では、壁紙の継ぎ目は1年も経たないうちに目立ち始めます。このことをお客様にお伝えすると「そういえば暑さ寒さに悩んでいた友達の家のクロスは継ぎ目が目立っていたようです」と納得されていました。

耐震性能や断熱性能は、目に見えるものではなく、比較を通じてでしかなかなか伝わらないものです。しかしながらこうしてお客様の満足に結びついていることを知るとお薦めしてよかったと思いますし、自信にもつながります。

人に支えられ、私がようやく気づいた感謝すべき環境

いずれにしましても、自分たちの建てた家が「水野さんに頼んで本当に良かった。ありがとう」と言っていただけることを知ると、自分の力が発揮できる、この業界に進めた事を感謝せずにはいられない気持ちになります。

恥ずかしながら、この感謝の気持ちは、一番初めに触れましたように、若い頃にはあまりにも自分はぼんやりしていて、気づいてはいませんでした。長年、この仕事を通じて、気づかされたようなものです。言い換えれば、お客様に育てていただいた、お客様の「ありがとう」から気づかせてもらったようなものです。

家族との写真

もちろん、地域の方からも、人の優しさ、温かさを教えてもらいました。平成14年に火事を出した時、消防や地域の方々にご迷惑をお掛けしたにもかかわらず、親身になって色々手助けいただきました。その年の暮れに、妻が交通事故に合い入院した時は、妻の見舞いや、3人の子育てと、お袋の通院の送り迎えをしながらてんやわんやで仕事をし、妻のありがたさ、健康のありがたさ、サポートしてくれた社員のありがたさも思い知らされました。

今、改めて思います。感謝できることは「喜び」です。感謝できる環境に自分がいられることこそ感謝すべきことと思います。いいものをつくれば、喜んでいただける。全て喜んでいただけるお客様がいらっしゃるから成り立つ世界なんだなあと思うと、堂々巡りになってしまいますが、本当にこの仕事をさせていただいてよかったと思わずにはいられません。

先代からの信頼を裏切らない取り組み

父は平成10年に他界いたしました。私に代表の座を譲ってからはきっぱりと現役から退いていましたが、仕事の報告だけは怠らないようにしておりましたから、お客様の様子は常に把握していたと思います。

私が感動してしまうのは、父が築いたお客様との信頼関係が、今でもしっかり生きていることでした。父がお世話になったお客様が、建て替えを発注してくださること、お客様のご子息が新築を検討された時に発注していただけることなど、お客様にとっても世代を超え、我が社の住まいを気に入っていただき、2棟目、3棟目を建ててくださることです。このことは本当に感謝とともに感動を覚えます。そして、この信頼にしっかり応えなければと思うと身が引き締まります。

息子といっしょに

今、私の長男が建築の道へと進み始めました。一旦は、一般の大学を出て別の道をと模索したようですが、建築科の学校に入り直し、私の跡を継ぐ決心をしたようです。
将来うまくバトンが渡せるかどうか、その成否は私の取り組みとこの世界を目指した長男に大きくかかってくるものです。お客様の家づくりの歴史に水野建築は技術と心、そして歴史でも応えられるよう、しっかり励んでまいります。

ご家族の今と未来のために、性能も空間創造もお任せください

私は今、お客様の喜びのために、新しい取り組みとして「住まいの空間創造」に向き合っています。それが「ランドメードシステム」です。これは土地と空間を最大限に活用し、床面積ではなく、空間容積でプランニングし、コストを抑えながら広々と暮らせる方法で、具体的にはスキップフロアを活用したナナメ上の空間創造です。

住まいを単純な2フロアにせず、多層構造にすることで床面積が増やせ、諦めの対象となっていた納戸や趣味室、書斎の設置も可能となります。吹き抜け感も演出できます。家の隅々まで温度差が無く使える我が社得意の「スーパーウォール工法」との併用で、ますます家族と過ごすことが楽しくなるマイホームライフがかなうことでしょう。

これからも、私、そして弊社は、お客様の喜びのために、電話1本で参上する「地域のホームドクター感覚の建築家&工務店」としてきめ細かく対応してまいります。どうぞご期待ください。

我が社は、未来の大工育成に取り組んでいます

余談になりますが、現在我が社は、若い方の建築に対する夢を応援するとともに、貴重な伝統技術を少しでも後世へと引き継いでもらえるならばと、国家プロジェクトの一環でもある「一般社団法人 大工育成塾」に参画し、日本の伝統的木造住宅の技術を引き継ぐ大工育成にも取り組んでおります。すでに1名が卒業し、現在は19才になる若者が技術の習得に励んでいます。住まいは文化そのものです。大工に必要な技術と理論はもちろん、思いやりを表現する技術も学んでもらえたならと考えております。いつの時代も、住まいが幸せを育む場所であるようにと願いつつ。

大工育成塾 塾長と

大工育成塾 入塾式

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